一般社団法人 軽金属学会

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エッセイ

音楽の世界

平成15年4月1日掲載

碓井 栄喜

株式会社 神戸製鋼所
常務執行役員

 

 音楽といっても、ここではクラシックのお話しである。Musicの語源は遠くギリシャ時代のムーシケー(Mousike)に遡る。意味は太陽神アポロに仕える女神ムーサ(Mousa)達の司る技芸ということらしい。またこの時代にすでに管楽器と弦楽器が生まれている。管楽器は主としてギリシャ悲劇で用いられ、感情の激しい起伏を表すのに適し、弦のほうは協和音を出す楽器として使われた。哲学者でもあるピタゴラスは音程と弦の長さが見事な数比関係にあることを把握し、宇宙の調和と音楽は深い関係にあると考えた。

 ここから有名な「天体の音楽」、つまり各天体の距離は音程の比と酷似しており天体はまさに音楽を奏でているのだという考えが出てくる(ただし音としては聞こえない)。

 しかしながら、この時代から中世を通して音楽の主役は人間の声で、楽器はあくまで補助的なものであった。また中世では音楽は教会と密接な関係を持ち、神や真理のためのものであった。

 近代的な音楽の始まりはルネッサンス期であり、美術、演劇、哲学とともに正にコペルニクス的な変革が起きた。つまり神や宇宙の真理から「個人」への大転換である。

 その先導はなんと15世紀前半に、イギリス人で外交官、天文学者、そして音楽家のJ.ダンスタブルによってなされたということは意外であった。音楽とは縁が遠いと思っていたイギリスである。シェークスピアが活躍したのはバロック期であるから、その100年以上も前に芸術の素地があったということになる。しかし現代でもサイモン・ラトルがいるしイギリスはあなどれない。またこの世紀の後半に既に音楽理論が出来ている。

 しかしながらルネッサンスの主体はあくまでイタリアであり、かの宗教改革者ルターも称えた大作曲家ジョスカン・デプレの存在が大きいという。ここを経て17世紀のデカルトの時代(わたし:個が主役)となり、音楽ではバロック期(歪んだ真珠の意味で本来は美術用語)となり多声のポリフォニーからモノフォニーへ移リ始める。代表がオペラの創始者ともいえるモンテヴェルディであり、このオペラの序曲がやがて交響曲に発展してゆく。バッハは次代の古典派への過渡期の作曲家とも言え、この時代はまだ音楽は教会と宮廷のためのものであった。バロック期のもう一つの大きな貢献は器楽の発展で、この時
期にヴァイオリンやピアノの原型が完成している。

 音楽が宮廷から市民のものへと移ってゆくのが次の18世紀の古典派の時代であり、これは産業革命と密接に繋がっていると思う。この古典派を確立したのがハイドンであり、つづいてモーツアルト。彼は総合芸術といわれるオペラを完成させた。また交響曲、ソナタなど極めて多彩な作曲を成したまぎれもない天才であるが、僕は今ひとつ彼の軽さになじめないところがある(あまたのファンからのブーイングはあえて受けよう)。

 そしていよいよ19世紀ロマン派の時代である。いわゆるクラシックはこの時代が頂点と思うし、僕のもっとも好きな作曲家がいる。それはベートーヴェンとショパンに尽きる。印象派といわれるドヴィッシーもいい、ブラームスも結構いけるがワーグナーは嫌いである。ベルリオーズはなんとなくアニメ的で、流行のマーラー、一世を風靡したリスト、そしてクララのシューマンなどはよく分からない。ムソルグスキー、リムスキーコルサコフは特徴はあるが感動はしない。チャイコフスキーはピアノ協奏曲はいけるがバレー曲は好きではない。シューベルトは「未完成」のみで、歌曲は僕の好みの外にある。シベリウス、グリークの北欧勢はなかなか良いし、ラベルのボレロなどもいい。はたまたハンガリー舞曲やスペイン狂詩曲などもいいと感じるのでどうも民族的なものに弱いようである。忘れていたがドヴォルザークは結構いい。

 さてべートーヴェンとショパンである。ベートーヴェンはハイドンの弟子であるが、師匠とは別物で、天才モーツアルトと言えども彼の足元にもおよばないと思う。その深さ、高さ、音楽の世界では神に近い存在だ。人間ベートーヴェンはむしろ変人で面白みのない人だが彼の音楽についての話しである。

 ソナタ、協奏曲、交響曲どれもすばらしい。交響曲など彼の後では何を作っても見劣りがする。前述の民族的なものなど強い個性がないと太刀打ち出来ない。ピアノソナタも31曲もあるから全ていいとは言わないが、比較的若い時代から月光、熱情、悲愴、告別、ワルトシュタイン、テンペストなどのタイトル付きを含めた絶品といえる名曲を残している。オペラは殆どないが、これはもともと好きでないので、僕から見ればむしろ作っていないのがすばらしい。
 しかし、それでも僕はショパンのほうが好きだ。協奏曲、ワルツ、プレリュード、マズルカ、ポロネーズ、ノクターン、バラード、スケルツォ、ソナタなどいろいろあるが、彼のオーケストラ物は良くない。本人も早々にその方面は諦めたのだと思う。

 ショパンはなんといってもピアノである。僕はノクターン、スケルツォそしてバラードが好きだ。ノクターンも20曲もあるが、4番、7番、8番、11番、12番、13番、18番がよい。スケルツォは2番と4番、バラードは1番と4番である。何がベートーヴェンと違うのか、強いていえば、ベートーヴェンはやや重いか。それと弾くのが難しい。ごまかしが効かないのもやっかいだ。そうは言っても素人にとってはショパンも難しい。バラード4番で悪戦苦闘中で、すでに1年を越えているが、あまりに大曲(16ページ!)、難曲であった。いまさらどうしようも無いが。後継者とも言えるスクリャービンになると違いを出すために前衛的にならざるを得ないのだともいえる。

 そうこうする中で晩年には古典派側の批評家から批判されて困惑していたバッハ大先生をいま聴いてみると妙に味わいがある。ゴールトベルグ変奏曲などなかなかである。平均律もチャレンジすべきかもしれない。同時にいくつものメロディが隠されているのがバッハである。これは聴くより、弾いてみた方がよく分かる。

 とにかく音楽はまだまだ奥が深い。とうてい味わい尽くせないと思う。
 機会があれば次に美術について述べてみたいと思う。

 
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