一般社団法人 軽金属学会

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エッセイ

「国際化」について思うこと

平成16年12月8日掲載

古城 紀雄

大阪大学
教授

 

 1。はじめに
 我が国の所謂留学生受入れ10万人計画は、目標とした21世紀初頭よりは遅れたものの、平成15年度において達成され、現在日本に学ぶ留学生の数は11万7千人強(平成16年5月1日現在)となっています。しかしこの計画は、単に数だけでなく、様々な基盤の整備及び社会構造の改善をも含むものでなくてはならないとも考えられてきました。
  日本に学ぶ外国人の留学生・研究員およびその家族と、日本人学生や地域の人々との交流は、大学などのキャンパス内にとどまらず、ともに住民同士であることでもって必然的に地域社会全体をも含めて広範囲に展開されています。やや古い話になりますが、平成9年に出された文部省(当時)の留学生政策懇談会第1次報告「今後の留学生政策の基本的方向について」においては、「他国の人々と共生し異なる文化を受容できる社会環境が整うなかで留学生の受入れが自然に行われるようになることが重要であるとの視点を忘れてはならない」と記述されており、逆に言えば「社会環境の国際化が十分ではなく不自然な受入れ体制である」ことが指摘されています。
 本小文では、まだまだ残存する「不自然さ」を概観した上で、「国際化」という視点での日本の後進性と、留学生及び研究員をリソースとした地域社会の国際化を目指した交流の活性化活動について、思いつくまま書かせてもらいます。



 2。期待される「国際化」とは
 国・地域の人々の行動・思考に共通する傾向は固有の文化的側面を色濃く反映します。よく指摘されていますように、日本人の場合、「農耕民族」「島国」「儒教思想」などのキーワードで象徴されるその底流を形成している意識は、パターンとしていくつかの共通性を生み出してきています。たとえば、通常の感覚の日本人が望む理想的なライフスタイルは、最近は少し変化しつつあるようですが、極論すれば基本的には以下のようであるとされています。すなわち、「懸命に学業に励んで有名大学に入学し、その大学のグループの卒業生としてこれまた名のある企業に入社する。入社後はそこでの社内教育を受け、先輩を敬い後輩を育み同期の仲間とはしっかりスクラムを組んで、決して突出することなく、所属するグループとして成果を蓄積するように奮闘する。多少のつらい状況があっても時には家庭や自分自身を犠牲にしても我慢しつづけ、ついにむかえた定年退職に際しては拍手の中で花束を戴き、その日は、おとうさんご苦労さま、無事勤めあげることができてよかったね、と家族からねぎらいを受ける。そして、当人においては言いようのない達成感をもって、幸せな人生であったと述懐できることとなる。」 これは、現在ではやや古い生き方であるものの、このような意識環境のもとでは、当然のように「長期にわたって信頼しあえる関係」を維持できる仲間が最優先されることとなり、逆に、中途から短期間コミットするグループに対しては基本的に受容しにくい側面をもつことになります。外国人に対しても例外ではなく、すでに作り上げている共通認識、ルールや生活パターンを、短期間参画してどこかへ行ってしまうようなグループ外の者(外国人に多い)に乱されることをもっとも嫌う流れであるとも表現できます。「国際化」が「国際的に通用するようになる変革・改善の過程」を意味するとすれば、上述の日本人に共通する行動様式はあきらかに非国際的で閉鎖的であり、日本・日本人が諸外国の人々とまさに国際的に活動してゆくための前提条件として、「国際化の促進」が是非図られなければならないと認識はされています。

 3。誰のための「国際化」か?
 ここまで記述した認識が極論にすぎるとしても、「異なることをお互い評価する」とか「お互いの文化・習慣を尊重する」ことができるようになって外国の人々と共生しつつ自ら主体的に生活すること、すなわち「国際化すること」は、上述の感覚の日本人にとっては容易ではなかろうと判断されます。しかし、国際化の流れを自然には受容できにくい文化・気質の日本人・日本社会ではあっても、今日的にはこの体質をいくらかでも拡幅して「国際化しなければならない状況」にあると強く自覚されつつあります。このような国際化推進の流れは、個人的な、あるいは小さな地域のレベルから、「成熟した形態で外国人と共生する土壌づくり」を目的とする自治体そして国レベルで、さまざまに展開されて来ています。
 このような「国際化後進国状態」は、なにも一般地域社会においてみられるだけではなく、大学や研究機関においてはむしろ組織温存を意図するあまりより顕著となっています。結果として外国人研究者や留学生にとってはさらに受け容れがたい環境となっていることが指摘されています。高等教育あるいは研究機関であれば、この時代にあって、もっとも高度の国際化が達成されるべきであることは論を待たないことでしょうが、現実は悲惨な状況のようです。一見国際的な雰囲気を高める外国人研究者や留学生の受入れは、時として上司の都合で決められ、実際に指導あるいは共同研究するレベルの人たちの決定的な過剰負担になっていることが多々あり、加えて国際化していない日本式習慣のみがしっかり通用している環境になっていることが多いと言われています。勿論、どんな状況であれ、外国人が身近に存在するということは、センス的に異なった文化・思考傾向を学ぶことができることははっきりしているので、無意味ということではないのですが、よく言われる「長期滞在者ほど日本嫌いになる」傾向は、日本人、外国人双方の結構多数にのぼる人から指摘される現状となっています。受入れる側と受入れられる側の双方の努力、経費に見合う効果が得られていない現状であるとすれば、少しまじめに考えて見る必要があります。
 国際化活動が、見返りを期待する一部の人のためであったり、計画・目標に含まれているので、仕方なしに数あわせをするということが本意でないことははっきりしています。誰のために、国際化予算や人的労働時間を費やすべきと考えるのか、との問いに「我がため、我が組織の構成員のため、ひいては日本人に利する形で」との考えをはっきり述べる流れがようやく出てきています。このようにはっきりと方向付けすることで、予算や時間の投入の適否の判断がはっきりしてきています。日本・日本人が窮屈な予算・システムのなかでもがく一方で、外国や外国人個人のみが、時にはあきれるほど、優遇されるパターンは今後激減させるべきでしょう。支給する滞在費や提供する住宅環境が時として良識を疑われ、納税者に説明できない程度の豪華さの陰で、それらの人をお世話する多くのスタッフ、事務員が疲労困憊するパターンの「招聘」から、まず再考してゆくべきだと感じています。
 国際化は、あくまで自分たち側への効果・貢献を前提にしてゆく流れとなると思います。このような国際化推進の流れは、個人的な、あるいは小さな地域のレベルから、「成熟した形態で外国人と共生する土壌づくり」を目的とする自治体そして国レベルで、さまざまに展開されて来つつあります。大学においては、地域と連携した企画として、ホストファミリープログラム、地域の学校における国際理解教育支援プログラムおよび留学生インターンシッププログラムなどが積極的に展開されています。大学・地域の一体となった留学生交流の推進の意義は、留学生などをリソースとして、交流や教育に直接かかわる集団からの積極的な企画提案・実践でもって「日本人・日本社会の国際化」を意図することにこそあると強調したいと考えています。そのことでもって「自然な形」そして「成熟した形態」での国際交流の環境が醸成されてゆくであろうと信じている昨今です。

 
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